歌い物
メロディ(節)を聴かせることに特化した音楽。地歌(じうた)、長唄(ながうた)、箏曲(そうきょく)などが含まれる。
地歌
もっとも古い三味線音楽で、歌と弦で奏でる盲人音楽家の芸として関西地方を中心に発展し、江戸では歌舞伎の伴奏として「長唄」と呼ばれるようになっていった。三味線音楽は歌舞伎や浄瑠璃など舞台音楽との結びつきがよく見られるが、地歌は舞台芸能とは比較的独立した音楽として全国に普及している。箏曲
箏(こと)を伴奏として歌う合奏曲のこと。箏曲家は、三味線や歌も扱える場合が多い。戦国末期に僧によって生まれたものが、三味線を取り込むことによりポピュラー化した。江戸後期には地歌と合流し、さらに発展していった。よく知られる「さくらさくら」も箏曲のひとつ。長唄
関西から来た「地歌」をルーツとし、17世紀以降に歌舞伎の舞台音楽として発展。浄瑠璃など多様なジャンルの影響を受けたことで得た鮮やかな音やリズムが特徴で、唄と三味線がそれぞれ担当者に分かれている。19世紀後半には独立した音楽として鑑賞されるようになった。語り物
物語を聞かせることに特化した音楽。「平家琵琶」「義太夫」「豊後・常磐津節」などが含まれる。
平家琵琶
「平家物語」を琵琶を演奏しながら語るための音楽。琵琶法師たちが、三味線が琵琶より軽く扱いやすいことに着目し、琵琶の代わりに使い始めた。古典音楽として武士や俳人に好まれ続けたいっぽうで、この流れから歌曲としての「地歌」も生まれていく。義太夫
世界無形文化遺産に登録された「文楽」でも知られる、人形浄瑠璃で演奏される音楽。1684年に竹本義太夫により創立された竹本座で生まれたことからこの名がついている。舞台上の人形に命を吹き込むような重く迫力のある演奏が特徴で、女性が語る義太夫節のことは「女義太夫」と呼ぶ。豊後節
1700年代に宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)が作った浄瑠璃で、豊後掾の弟子、常磐津文字太夫(ときわづもじたゆう)は義太夫節をもとに「常磐津節」を作り上げ、現代でも楽しまれている歌舞伎音楽として発展させた。やがて常磐津節からさらに「豊本節」が分かれ、1800年代には清元延寿太夫(きよもとえんじゅだゆう)が「清元節」を誕生させる。豊後節から生まれ、それぞれ独自の味わいを持つこの三派を、「豊後三流」と呼ぶ。
<参考文献>
『三味線読本』速水哲郎/邦楽社
『まるごと三味線の本』田中悠美子・野川美穂子・配川美加/青弓社
『やさしい三味線講座』千葉登世/自由現代社
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歌い物
メロディ(節)を聴かせることに特化した音楽。地歌(じうた)、長唄(ながうた)、箏曲(そうきょく)などが含まれる。
地歌
もっとも古い三味線音楽で、歌と弦で奏でる盲人音楽家の芸として関西地方を中心に発展し、江戸では歌舞伎の伴奏として「長唄」と呼ばれるようになっていった。三味線音楽は歌舞伎や浄瑠璃など舞台音楽との結びつきがよく見られるが、地歌は舞台芸能とは比較的独立した音楽として全国に普及している。箏曲
箏(こと)を伴奏として歌う合奏曲のこと。箏曲家は、三味線や歌も扱える場合が多い。戦国末期に僧によって生まれたものが、三味線を取り込むことによりポピュラー化した。江戸後期には地歌と合流し、さらに発展していった。よく知られる「さくらさくら」も箏曲のひとつ。長唄
関西から来た「地歌」をルーツとし、17世紀以降に歌舞伎の舞台音楽として発展。浄瑠璃など多様なジャンルの影響を受けたことで得た鮮やかな音やリズムが特徴で、唄と三味線がそれぞれ担当者に分かれている。19世紀後半には独立した音楽として鑑賞されるようになった。 -
語り物
物語を聞かせることに特化した音楽。「平家琵琶」「義太夫」「豊後・常磐津節」などが含まれる。
平家琵琶
「平家物語」を琵琶を演奏しながら語るための音楽。琵琶法師たちが、三味線が琵琶より軽く扱いやすいことに着目し、琵琶の代わりに使い始めた。古典音楽として武士や俳人に好まれ続けたいっぽうで、この流れから歌曲としての「地歌」も生まれていく。義太夫
世界無形文化遺産に登録された「文楽」でも知られる、人形浄瑠璃で演奏される音楽。1684年に竹本義太夫により創立された竹本座で生まれたことからこの名がついている。舞台上の人形に命を吹き込むような重く迫力のある演奏が特徴で、女性が語る義太夫節のことは「女義太夫」と呼ぶ。豊後節
1700年代に宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)が作った浄瑠璃で、豊後掾の弟子、常磐津文字太夫(ときわづもじたゆう)は義太夫節をもとに「常磐津節」を作り上げ、現代でも楽しまれている歌舞伎音楽として発展させた。やがて常磐津節からさらに「豊本節」が分かれ、1800年代には清元延寿太夫(きよもとえんじゅだゆう)が「清元節」を誕生させる。豊後節から生まれ、それぞれ独自の味わいを持つこの三派を、「豊後三流」と呼ぶ。 -
・参考文献
『三味線読本』速水哲郎/邦楽社
『まるごと三味線の本』田中悠美子・野川美穂子・配川美加/青弓社
『やさしい三味線講座』千葉登世/自由現代社
三味線の成り立ち
人類最古の一弦~三弦楽器はエジプトの「ネフェル(またはノフル)」と言われ、アコリス遺跡の墓壁画等でその姿を見ることができる。
三味線の起源として知られているのは中国の三弦(さんしぇん)で、これは、ペルシャの「セタール」、中央・西アジア&インド周辺の民族楽器「タンブール、中国古来の弦楽器「胡弓」などを改良し、元の時代に完成したと見られている。
三味線の起源となった「三弦」はまず1390年頃に琉球(現在の沖縄県)に伝わり、琉球ではそれを小型化したものを「三線(さんしん)」と呼んで民族音楽の伴奏に使用した。
日本への渡来
1500年代に、琉球から蛇皮を張った二本の弦の楽器が境港(大阪)に輸入され、琵琶法師が三弦に改造した、という説と、琵琶法師が琉球に渡って見聞きした楽器を琵琶をもとに作った、という説がある。
そこから30年以上かけて、三味線は安土桃山時代に完成したと言われている。
日本での発展
武士や貴族ではなく「芸人」であった琵琶法師が、辻説法などの伴奏に三味線を使ったことで、三味線は民衆の生活に入り込んでいく。1700年代になると歌舞伎の伴奏として爆発的な流行を見せた。
当時の日本では、貴族のものである雅楽、武家のものである能楽、虚無僧のものであった尺八など、身分によって音楽には制限があった。一般民衆のための楽器といえば、笛や打楽器しかなかったこの時代に、三味線は民衆にとってのはじめての弦楽器となり、大きく支持されることになる。 こうして支持者を増やした三味線は進化を重ね、その精密さと技巧で幅広い音楽に適した楽器として今日に至っている。